[第63話]旧暦は死なず 明治の改暦と新潟県民

 クリスマスに忘年会、お正月の準備と、世間では何かとあわただしい12月。この12月がわずか二日間で終わった年があるのをご存じでしょうか。

 明治5年(1872)11月9日、明治政府はこれまでの太陰太陽暦(注1)をやめ、太陽暦(グレゴリオ暦)(注2)を採用すると発表しました。その際、太陽暦の新年に合わせ、来る12月3日を明治6年1月1日として、この改暦を実施すると定めたのです。ただでさえ急な発表でしたが、当時は郵便や電信がようやく整備され始めた頃だったため、地方までこの情報が届くのはさらに何日もあとになりました。突然今までの暦が使えなくなり、新年が約1か月前倒しされるという状況に、人々の戸惑いはいかばかりだったことでしょう。

 西蒲原郡粟生あおう村(現燕市)の私塾・長善館の2代目館主、鈴木てきけんの日記には当時の様子が記されています。惕軒は発表の13日後、11月22日に手紙によって改暦を知りました。政府の決めた新年まで10日しかなく、その日の日記に「わが国始まって以来、前例のないことだ」(意訳)と驚きを記しています。

 惕軒は、ひとまず大晦日の12月2日に、新年を迎える準備をし、歳末の挨拶などを行っていますが、やはり違和感があったようです。迎えた明治6年1月1日付には「御改暦」と書き、「正月といわずに一月といい、元日といわずに一日という、愚かにもその理由が未だにわからない」(意訳)と述べています。彼は1月の日付に毎回旧暦を併記し、しまいには1月30・31日を鈴木家独自の大晦日・元日としてしまいました。さらに翌年には、惕軒の住む粟生津村自体が2月1日を村の元日と定めたため、それ以降は、新暦の新年と村の新年、両方の準備やお祝いをしています。この習慣は息子のげんがくの代にも続けられました。

 どうやら、日本人の季節感にも合っていて、長年慣れ親しんできた旧暦に基づく生活サイクルは、簡単に切り替えられるものではなかったようです。粟生津村に限らず、県内の農村部の多くは、第二次世界大戦後まで旧暦に合わせた生活を続けました。現在のように新暦が人々の生活に定着したのは、高度経済成長期を迎えた昭和30年代以降のことになります。

(注1)太陰太陽暦…月の満ち欠けを元にして、太陽の運行を加味した暦法。日本では、明治の改暦まで使われていた太陰太陽暦を一般に「旧暦」といいます。
(注2)太陽暦(グレゴリオ暦)…太陽の運行に基づいた暦法。1582年に制定されて以来、ヨーロッパを中心に多くの国々で採用されていました。「旧暦」に対し「新暦」ともいいます。

西蒲原郡粟生津村長善館学塾資料「日記 二号」
【西蒲原郡粟生津村長善館学塾資料「日記 二号」】(請求記号E9306-298)

明治5年11月22日付
【明治5年11月22日付】

明治6年1月1日付
【明治6年1月1日付】